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情報時代の美術

先日、日本画の燕子花図を描くワークショップを開催した。4名の方が集まった。中には外国の方もいた。

尾形光琳の「燕子花図屏風」から一部のイメージを抜粋し、テキストを作成した。

折しも、近所の根津美術館でこの「燕子花図屏風」を展示中。これは毎年恒例になっているご様子。
この時期に、「燕子花図屏風」の体験レッスンをやってみたいとずっと思っていた。
2014年の設立以来、思っていた夢だった。
それがようやく叶った形になった。
よく晴れた初夏の一日で、私も嬉しかった。

「目で見るだけではなく、
描いてもみる」

こんなアプローチが、普通で普遍的になっていけば良いと思う。

これは美術鑑賞に限ったことではないが、
今まで隠されていた情報が多人数に開示され、
世論をうごかしていく様を、
何度も体験している。

このような時代の私達にとって、
美術館で見る作品の描き方、作られ方は
外側から見ているだけのものではなくなっていく傾向にあるのではないか。

実際に自分の手で触れ、描いてみて、
体験したものを鑑賞する。
これがポイントになると思う。

今回の燕子花図屏風のワークショップでも、
参加者は事前に根津美術館に行き、
展示中の本物の作品を鑑賞していた。

喜びも、新しく発見する驚きも
とても大きかったそうだ。
ワークショップを開催している方の私も手応えを感じた。











 

2026-04-17 23:23:08

舞、水墨画の筆遣い、剣は相通ずる

学生の頃、神戸の摂津岡本という所に舞の師匠がいて、
京都から毎週通っていた。
舞と水墨画を習っていた。
 
芸術は総合的なものであり、絵を描くといって絵画だけを学ぶようでは
まともな修行にならない、と仰っていた。
 
師匠も、舞を学ぶにあたって、
絵を描き、柔道をやり、剣術をやり、日本泳法をやり、
楽器と歌を覚え、書物を読んでお稽古されたそうである。
 
扇は、元々は、刀を帯刀できない時に差すものであり、かつ軍配の代わりなのだと言う。
戦国時代になぜ能が武将の間で流行ったかというと、
軍配の動きを洗練させ、的確に指示を出すために始められたのが理由だそうである。
それで、舞の動きの無駄を発見するために、水墨画を習ったという事で、
舞、水墨画の筆遣い、剣は相通ずるものがお互いにあるという。
 
そこで私も絵画の修行の一環として剣道の稽古をし、竹刀を振って鍛えた。
素振りを丹念に行い、振り下ろした竹刀を、ぴたっと空中で止めた。止めると言っても、
腕で止めるのではなくて、身体全身が準備をし、各部が連動しているようだった。動きは深い所から来ているのを知った。
 
その後、随分と剣道を練習していたが、ある時自分の筆遣いが良くなったのを感じた。
特に細い線を描いていて、ピタっと止める時。黒い線が生きていた。全身から、この極細の線を産みだした感じがする。線はこのように描き、筆と自分はこのように一体となるのだ、と思った。
 

2025-04-27 04:12:30

Otonamiラウンジ 大丸東京店にて 日本画作品展示販売中

2025年4月24日
お世話になっている、Otonamiの新しい店舗スペースができ、
無事にオープンされた。
場所は、大丸東京店の10階です。

そこに、わたしの日本画作品を置かせて頂けることになり、
有難く参加させて頂いた。

エボシドリという珍しい鳥と、桜を金箔地に描いたものと、
オーガスタという白い花とモンシロチョウを、やはり金箔地に描いたものを
2点お納めしました。

人間国宝の高名な諸先生方と一緒のスペースに並べて頂き、
まことに光栄で恐縮です。ぜひ、ご覧いただきたいです。
お近くにお立ち寄りの際は、どうぞよろしくおねがいいたします。

そのOtonamiラウンジでは、様々な体験クラスが開催され、
日本の伝統文化のメッカとなる模様です。

「知るだけではない。自ら触れてみて初めて理解し、そこから新しく伝承していかれる。」
まさに体現しておられます。


https://lp.otonami.jp/lounge
〒100-6701 東京都千代田区丸の内1-9-1 大丸東京店10階

2025-04-25 23:31:43

作品にいのち

絵画が、財産や金銭の代わりに通用されたのは、
芸術が存続する上で、メリットだったのかもしれないが、
私なんかは、
「絵って何なんだろうなー」と思ってしまう側だ。
 
描く方は自然界と呼応して描いていて、
お金が流通する物質界とは真反対のところで心血を注いでいる。
できあがった作品が、まるで陰陽のバランスを保とうとするかのように、
物質界にまみれた上で存在しているのを見ると、
ほんとうに作品は命を吹き込まれた、生き物なんだと思う。
 
最近、ヴィオニッチ手稿の内容の話を聞いて、
生命の吹込み方が記されているかもしれないという話だったのだが、
同様のことを芸術家はしているのだろう。
生命は、吹き込めるのだ。気付かない内にも。
 

2025-04-16 20:41:05

牡丹の日本画/人間の幸福を知る

この4月、日本画の体験レッスンでは牡丹を描いている。
紅白の牡丹に、アゲハ蝶が飛んでいる図だ。

一見、可愛らしい絵柄に微笑むが、
いざ描いてみると、
「牡丹って、こんな花だったっけ?」とか
「蝶々って、こんな体だったの?」とか、
クラスは賑やかになる。

牡丹の花芯の形状ほど、皆が驚くものはない。
そして、牡丹の花芯の形状ほど、
牡丹の「プライド」を感じられる部分は他にない。

普段、まったく目にも留めないところに、
こころがあったのだなぁ、と感動する。

今度、牡丹にカメラを構える時は、もう以前の自分たちのように、
花の全体の姿を写すだけでは物足りないだろう。
なぜなら、
外見の姿だけではなく、もっと他に見るところがあった時、
人間とはこんなにも、嬉しく幸福感を味わうものなのである。
 
この幸福感を、絵を描くことを通して、学ぶことができる。

 

2025-04-16 20:32:53

お寺の生け花

出稽古で通っている大吉寺というお寺が世田谷にあり、
10年ほど前から、ありがたく場所をお借りしている。

社務所の入口をくぐり、玄関の柱に二か所、
花が活けてある。
境内の花を切り採って、
ご住職様と奥様が随時活け替えられている。
その花に、いつも足が止まってしまう。



花の形に、御仏が、
その花の姿に、くまなく行き渡る仏の慈悲が、
どうにも紛れようもなく現れているように、見えるからだ。

どうして、同じ花をみて、
こんなに違うのだろう?

花を見るひとの解釈が違うと、
こんなにも、正直に顕わになるものなのだろうか。

慈悲、それも、
なんという深さであろうか。人間に辿りつけない深淵さの向こうから、
絶えず愛がやってくるのが、分かる。
それが、葉の隅々、しべのひと先にも
くまなく通っている。こんな世界に、私達は生きていたのだ。


---

この素晴らしい生け花のような、花の絵を描きたい。

このような花こそ、絵描きたいものだ。


それには、日本画や水墨画なら、
叶えられる気がしている。


 

2025-04-16 20:23:57

海水に棲む仲間たち

麻薬であるからには、
悪いものの組織が利用しているのは世の常ではないか。
 
たとえば、今後は、流布しやすい利点のために、
善い目的で使用はするけれども、
コンテンツの内容以上に危険な要素が、同時に含まれている。
それは製作者にはどうにもできないので、
危険な側面についてはあえて言及しないでおく。危険な部分については、各々が個別に対処する責任を負っているものとする、
そんな具合になるだろう。
そして次々と新しい作品が制作されて公開される。
善と悪を、社会ではハッキリ言えないのに、個々人は明確に分けて対処することが求められる。
安全性と危険性を同時に内包したものを、扱わざるを得ない。

 
これと同じ状態なのが、海水だと、私はイメージする。
海水には、食べ物もあれば、自分の排泄物もあり、
一緒くたにまみれながら棲むしかない状態だ。
卵から孵化する者がいて、すべては先祖代々の屍に触れている。

 
そこで魚やタツノオトシゴは、たしかに「文句を言っても始まらない。」と言いたげな、
ムスッとした顔をしている。
魚は考える事も放棄したかもしれないが、人間はそうもいかない。
 

2025-03-22 19:43:00

床の間と付け立て画法-2 新しい時代の掛軸表装

先日の細見美術館では、掛け軸の表具がいかに、
作品の見え方に影響しているかを研究する
恰好のチャンスだった。


まさに、溜飲を下げに下げまくる想いで、
構図と表具の連動性を感じてきた。

私は、実はもう四角い額に入った絵の世界に
辟易しているひとりだ。
掛け軸の世界の新鮮さ、アイデアの豊富さ。
掛軸には尽きない面白みがある。いつまでも実験を重ねられそうだった。

現代のお軸は成立する、と思った。

---

現代の部屋に掛け軸をかけて、
困るのは傍を通れないこと。
では、通らせなければいい。
そのひとスペースは、自分のための、自分を表現するための場所、というのを
設えればいいのだ。

「ひとしつらい」とでも称してみるとします。

そこは、室内の内とも外とも、和合して繋がったりできる世界で、
今の自分のステータスを再確認したり、進歩を促したり、
自らが自らを慈しむ事を覚えたりする場所。

そこには、たて長の掛け軸がかかり、
下から上へ理想を見上げるように、
また理想の方からも、温かなまなざしで見つめてもらえるようにする。

宗教のない時代の、これは新しく、自分の精神を手入れする方法。
外界を尊重することも両立するという、
本当、これ以上なく、これからの時代に必要になる。


---

いろいろ想像ができてきた。

通常の掛け軸の縦半分のサイズ。
軸棒には、なにか携帯ストラップのように、小さいものをいくつも吊るせるように。
あくまでも自己表現としての掛け軸だから。
表木と天地の天は、強化しておく。
表木も太く丈夫にしてもいい。

中回し、柱の布は、オリジナリティを高められないと。
オーダー印刷が可能なコート紙へ。

などなど。


 

2025-03-13 20:28:00

床の間と付け立て画法

先日、京都で四条派の付け立て画法を教えていらっしゃる先生と
電話でお話をさせて頂く機会を得た。

「どうして、付け立て画法は衰退したのでしょうか?」
と質問させて頂く。
それは、戦後に日本家屋が次々と失われ、
床の間がなくなり、かけ軸を掛けなくなってしまったために、
必要のない絵画ジャンルになったためだと
先生はお答えになった。

掛け軸のない生活ばかりを営んできた私にとって、
付け立て画法のすばらしさは永遠である。
掛け軸も床の間も別になくてよい。
これは、私には当たり前のことである。


このように当然のことが、まるで上澄みのように浮上してきて、
掬いとられるまでは、
一度、破壊を通ることも辞さないものなのかもしれない。
国家は文化を大事に扱っている。



よく、不必要な外国の干渉があったせいだという意見もあるが、
私はそう思わない。
何であれ、本人の意思が働かなければ容易に動きはしないものだ。
その意思というのだって、
言葉で説得できるような軽い程度では、ビクとも動かない。


私達の未来に待ち構えている幸福が、
結果を招くように事態を起こしてくるのだ。

ある幸福な結果への変身のため、
自らが選んだ諸外国を利用して、自らの思い通りに邪魔立てをさせ、
より進歩した自覚を鍛えるということだって、国家というものにはできてしまう。







 

2025-03-12 20:12:00

光悦の能面「山姥」

先日、新装オープンした畠山美術館での展示を堪能してきた。

素晴らしい酒井抱一先生の作品がたくさんあって、抱一先生とデートでもしているような、
夢のようなひとときであった。
美術館でお借りした鉛筆でノートをとり、さっそく帰宅して制作に採り入れた。

---

本阿弥光悦が制作に携わったのか、自らノミを握ったのか
定かではないが、伝光悦という能面が展示されていた。

こちらは息を呑む、同時に、その能面のほうは息を吸うような具合で、
能面の裏側は宇宙と続いていて、
ひとたび吸い込まれたら、もうお母さんのいるこの世界へ戻って来られないのではないかと、
心配になるような物凄い作品だった。

その表情というのが、また、すっきりしている訳ではない  。
煩悩のこの世界にあるだけの数をすべて体験し尽くし、呑み込み尽くしたら、あるいは
このような一丸と成りえるかもしれない、という相だった。

あの、うつくしい、繊細な作品をたくさん残す光悦にして、
これ程の強く悶える悩み、苦しみと直面して生きていたのである。
この能面を打とうと思い立ち、打ち切ってしまうほどの。

琳派のアートは優しい風情が多く、そのために
きっとおもしろく可笑しいことを想う人たちだったのだろう、などと
解釈されがちなのが、残念だ。

この私達の時代には、彼らの想いを想像できるようなものが、
ないのだろう。

あの、戦国時代の真っただ中、
武将たちと近くにいて、武将ではなく、
たくさんの地獄を生きながらにして見てきたのだろう。
あの能面に現れている(と思える)光悦の背景は、
これからも琳派の作品を見る上で、心に留めて置こう、と思った。
それが、人としての誠実さのように、私には思える。


 

2025-03-11 19:55:00

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